お知らせ
鶴巻:つるまき …
井土ヶ谷には鶴巻の交差点に鶴巻市場其れに鶴巻橋と 鶴巻と言う文字が幾つか
見受けられますが元の呼び名は弦巻と書くのでございます
武蔵吉良家第七代当主吉良頼康の父成髙が 自領の世田谷に加え新たに手に入れ
た蒔田の地に作り上げた武具造りの一大拠点が此の弦巻 (現 井土ヶ谷下町・上
町の一部) なのでございます
弦巻と言う地名は世田谷にもございますが より効率良くより多量に生産可能な
此の地を 敢えて選んだのでございます
作り上げた武具は蒔田湾から船にて 成髙の盟友扇谷上杉の家宰太田道灌の居館
の在る品川湊 又は江戸城近くの船着き場迄運んで居たのでございます
文を愛し戦では敗けを知らぬ成髙ではあったが頼康の代には 足利御一家衆であ
る吉良家と姻戚関係を結ぶ事により 他の武士団に対して其の御身内である事を
誇示し 自家の家格を高める可く強勢著しい小田原北条家に半ば強引に姻戚を結
ばれ 都合良く利用されて居る其の憂さ晴らしか 頼康は十三人もの側妻を抱え
其の中の一人常磐姫のみが寵愛を一身に受けた事で 他の側妻の妬みを買い妬む
側妻らによる常磐姫不義密通の讒言を信じた頼康は 即日其の相手と告げられた
家臣を斬り 身の危険を感じた常磐姫は世田谷の城を抜け出たものの身重の身体
では逃げ切れぬと観念したのか 倒れ込んだ場所で相果てたのでございます
なれど 家臣との不義密通が偽りと判った頼康は怒りの余り 十二人の側妻を即
刻処刑してしまったのでございます
常磐姫を含め十三人の側妻は皆頼康の家臣又は其れに準ずる者達の娘でございま
す 以来 其の者らの頼康に対する忠誠は不誠へと変わり城内は不穏な空気に包
まれ 頼康の身を案じた小田原北条家は直ぐ様頼康を蒔田に呼び寄せたものの
蒔田に於いても其の空気収まらず 仕方無く鎌倉の玉縄城に御預けとしたのでご
ざいます
蒔田の弦巻を鶴巻に変えたのは 玉縄城に移される前だと察するのですが では
何故鶴なのか 古くは僊人(せんじん)の乗るものとされた鶴ですが 其の僊人の
僊とは死者を他に僊(うつ)す事 死者を板で囲って風化を待ち改めて葬る複葬の
事を言い 其の僊(うつ)された人を僊人と言うのでございます
頼康は出来得る事ならば 常磐姫の御遺体を蒔田湾の砂浜に拵えた板屋にて一度
骨にして後 蒔田城に隣接する吉良家の菩提寺勝國寺に改めて葬りたかったので
あろうが 其れも叶わぬと思い知った頼康は己を戒める可く 未来永劫其の名が
残ります様にと同じ音を発する弦の代わりに鶴の字を当て 其の地の名を鶴巻と
書き換えたのでございます