お知らせ
粘土板 … 其の弐
然る御方から
「3・5・4の刺突文が直角を導くものであるならば 1の口と2の目とされて居る
刺突文は何を意味するのでしょうか」
との御指摘がございましたが
伊達 藤田 両教授が 其れに付いて言及為されて居た記憶がございませんので
私なりの推考でよろしければ 御応え致します
目とされる二つの刺突文は 日・月ではなかろうかと想うのでございます
其して口とされる大きな穴は 環状列石のほぼ真北に“たゆたゆ”と水を湛える
神秘の湖 現在の十和田湖 又 其の真下の四角は 列石の真南に当たる現在の
八幡平の平らな頂上を表して居るのではなかろうかと想うのでございます
(土板の裏に記された図柄も凹凸の様に見えなくもない … )
十和田湖も八幡平も同じ 幾つもの火山の噴火により形成された自然な山なれど
一つはカルデラの湖にもう一つは頂上が平らな山の台地にと 現在(いま)に其の
姿を残してくれて居るのですが 其の噴火の様を目にした古代の方々は其の事実
を記録す可く 十和田湖と想われる大きな穴から八幡平と想われる土板の低部迄
熱く燃え盛る泥(溶岩)の通り路とした穴を貫通させたのではなかろうか と想う
のでございます
因みに 土板の低部の四角にはもう一つ候補が在るのでございます
其れは 列石の2㎞南西に黒又山(クロマンタやま・標高:280㍍)なる山が鎮座まし
て居るのですが 現在は山の形が円錐の形をして居るものの 元は四角錐であり
山頂は平で石を用いたテラス状のピラミッドの様な山故に 其の平な頂上は祭祀
を行う場 又は日・月の運行を観察する天文台 若しくは中山王墓の如く当時の
支配者の墓を表して居るのやも知れませぬ
何れにせよ 古代のロマンは尽きぬ
のでございます
縄文尺(35㌢)と十二進法 …
伊達宗行教授が申しますには
三内丸山のシンボル
六本柱の柱穴は 正方形を二つ繋いだ長方形をして居るが
正方形の一辺が4.2㍍と成って居る
此の4.2㍍は縄文尺(35㌢)の十二倍と成って居て此れが他の
数では無く十二である事に大きな意味があるのである
其れは他でも無い 古代オリエントを初めとして知的文化
の萌芽とされる地域での数の変え方に 十二進法が極めて
重要な位置を占めるからである
直角を求めるにしても辺長3・5・4(3・4・5)の総和は12で
ある つまり定理計算をせずとも 縄に一尺(縄文尺)二尺と
目印を付け12単位で切り 辺長3・5・4(3・4・5)の三角形
を作れば 容易に直角が得られ オリエント数学の最盛期
が縄文中期に近く中国の迎韶文化を含め オリエント歴法
が北回りで縄文に達し 祭事 歴法には十二進法が少なく
とも部分的に使われたのではなかろうか との事
私に取りましては真に腑に落ちる御話しなのですが
土板の裏に在る二組の三つの刺突文 合わせて六なのか
はたまた三十三と読むものなのか 三十三であるならば
考古学者の藤田富士夫教授が発見した縄文数和の三十三
と一致するものの 其れが何を意味するものなのか …
それが 問題なのでございます
粘土板 …
河北新報
9月26日(月)6:00 配信
世界文化遺産の大湯環状列石(秋田県鹿角市)の代表的な出土品で
粘土板の表面に付けた穴(刺突文・ドット数字)で 人間の身体を
表現して居る土板(どばん)の内部に 消化管に似た貫通孔が在る
事がレプリカの製作過程で分かった との事 …
土板は1985年に出土した長方形の土板(縦5.8㌢横3.7㌢厚さ1.5㌢)
で 表と裏には目や口などを表す穴が在り其の数は 口が1目が2
右胸が3左胸が4などと成って居て 6迄の数で人体を表現して居り
縄文人の数に対する認識を窺わせる珍しい出土品だ との事 …
土板を展示して居る大湯ストーンサークル館の担当者は
「縄文人が体内の構造を理解して居たのではないか」と推測する
との事 …
此処で幾つか疑問が残るのでございます
此の頃は縄文時代の後期 人や動物の体内構造など既に理解して
居たものと想われますが 口が1 目が2などはまだ納得の余地も
ござりましょうが 右胸が3と在るものの裏にも3が2つ在るのは
此れ如何に 今一つ納得の行くものではないのでございます
ちくま書房 「理科」で歴史を読み直す の著者
物理学者の伊達宗行教授によりますれば
刺突文の3.5.4とは 直角を割り出す基本数なのだと
大湯の北に在る三内丸山の あの精密な巨大六本柱を立てる為に
は直角の出し方を知って居る事が必須あり おそらく縄文尺(35㌢)
で3.5.4の辺比を持つ三角形を作り 直角を割り出したに違いなく
其の核心部が当時の技術集団によって記録され土板の形で大湯遺跡
から顔を出したのでは との事
私に取りましては 此方の方が納得なのでございます
口の様な穴から土板の低部に繋がる穴は大事な物故 肌身離さぬ様
革紐を通す穴と思われまする
因みに
3・5・4を十進法で読みますれば 太陰暦の一年の日数にピタリと
一致する とは 伊達宗行教授の御言葉でございます
場所は大湯環状列石の遺跡 嘗て太陰暦が使われたであろう事は
推して知る可しやと 想うのでございます
◉ 画像は 「理科」で歴史を読み直す
より 御借り致しました
重忠逝く … 其の弐
重忠と義時の一騎討ち 見事な演出でございました
重忠と長男の重秀 嫡男の重保が討たれた其の八年後
末子の重慶がニ荒山(日光)で討たれた事により
平姓畠山氏は完全に滅ぶのですが
重忠の未亡人が足利義純の元へ再嫁する事で
畠山の名は源姓畠山として現在(いま)に続いて居るものの
あの時 重忠が討たれて居なければ
私は此の世に 生まれて来る事は無かったのでございます
歴史好きの一人として 重忠のファンではあるものの …
あるが故に 何とも複雑な心持ちなので ございます