お知らせ
お知らせです …
来月
6月2日(火曜日)より再開致しますが
料理は お任せ¥4400〜(税込み)
御予約の御客様 3組迄とさせて頂き
加えて 酒類の御提供は出来ません事
何卒 御理解と御了承の程 よろしく
お願い申し上げます
定休日 毎月曜・火曜
Op 17:00
LO 19:00
CL 20:00
毛抜型蕨手刀:けぬきがたわらびてとう …
昔 某家の蔵に在った御刀でございます
其の家の婆様が申しますには御刀の名は
蝦夷の鉄断ちの御刀 : えみしのかねだちのおかたな
と 元は後ニ振り在りそれぞれの名は
蝦夷の水断ちの御刀 : えみしのみずだちのおかたな
蝦夷の火断ちの御刀 : えみしのひだちのおかたな
なのだと
何故飾らずに蔵に仕舞って措くのかと問うたところ
我が家の家宝刀なのだが 元は御神刀と呼んで居り三振り揃って
此其の御神刀故 蔵に仕舞って居るのだと
鞘は夏鹿の毛皮で 反りの無い刃は巾広く角度の付いた柄は
毛抜きの様に中が抜けて居り 柄頭は蕨の如く渦が巻き何とも
見慣れぬ御刀に 暫しじっくり眺めて居たのでございます
婆様が申しますには
『 日本刀の始まりだんでい 』 と
『 おらの御先祖様 此いで阿弖流為(アテルイ)様と一緒に
坂上田村麻呂と戦ったおんでい 』 と
阿弖流為様と共に戦ったのかどうかは扠措き
『 日本刀の始まりだんでい 』は
ほぼ当たりなのですが 其の流れをば御紹介致します
初手は
蕨手刀 から始まり より斬撃に強く手首への衝撃は弱い
毛抜型蕨手刀 ヘ 其してより実戦向きに柄頭の蕨の飾りを廃し
毛抜形刀 ヘ 其の毛抜形刀を長大化させた物が
毛抜形太刀 と成り
日本刀 へと変遷を遂げて行くのでございます
婆様の御話しはまだ続き
『 鎌倉が攻めで来たどきだんば 当時の主様が三振り背負って
むがえうぢ てぎをばったばったと斬り斃したばって はぢ人斬
れば曲がるおんだどよ 三振り目ではぢ人斬ったあど 九人目さ
めがげで曲がったおがだな振り上げだ其のとぎだどや なしてだ
がわがらねけども鎌倉は鎌倉でも別の鎌倉が助けでくれだのだど
当時の主様 恩に感じだんだべな
みんなへで鎌倉さ行ったおんだどよ … 』
鎌倉に着いて 曲がった御刀を鎌倉の砂鉄で打ち直して頂いて後
色々有って 数百年の時を越えて婆様の嫁ぎ先の某家に戻って
来たのだ其うでございます 婆様も既に亡くなり蔵も無くなった
某家も人手に渡って居りますので もう御目に掛かる事も無いの
ですが 西條八十ふうにお伝えしますれば
「 婆様 あの御刀 どうしたでしょうね
ええ 夏 蔵から出して見せてもらったあの御刀ですよ 」
なのでございます
❂ みんなへで は 皆んな連れて の意でございます
鉄:てつ …
鎌倉は 由井ケ浜を含めた三浜は勿論
金沢村に極楽寺の金山其の側を流れる針川(極楽寺川)や音無川など鉄 主に砂鉄
の産地として名は知れて居り 鍛冶ケ谷や上郷深田の鑪場(たたらば)に十二所の
鑪ケ谷(たたらがやつ)など鉄器の製造は古来から盛んに行われて居た様でござい
ます 故に今回は鉄 の字についての一考を
鉄は別字で鐵とも書きますが 順番に分解して行きます
金は 「キン」銅の塊などを鋳込む事を言い後に
金属の総称と成るのでございます
失は 「シツ」祝禱(しゅくとう:神官を通じて神に祈る事)して魂が自らの肉体の
外に出る状態 忘我 恍惚の意で己を失う様を表し
鐵の旁は「テツ」又は「黒」の意なのですが 此方も分解致します
戈は 「カ」と音し「ホコ」の形で其の意
武器であると共に聖器でもあるのでございます
才は 「サイ」戈の上の部分なのですが 祝詞(のりと)を入れる器の事で 戈に
才を加えた形が神聖の榜示(皆に知らしめる掲示版の事)と言い 以って
其の地を祓い清める意があるのでございます
呈は 「テイ」と音し勧める差し上げるの意があり 祝禱の器を捧げ神に祈る形
つまり鉄 鐵とは黒く堅い金属で造った戈(ホコ)に 祝禱の器才(サイ)を
加えて神に捧げ 意識を失う迄祈り其の地を祓い清める事の意 なので
ございます 敵に勝ち新たに奪い取った地又は奪い取られた地を奪還し
た際 倒した敵の屍で京(ケイ)を造り王を迎える可く 王が足を踏み入
れる前に祓い清める事を言うのでございます
やはり 祟りが怖いのでござりましょうや ですが其れは又別のお話し
別のお話し其の壱
祓い清め 不思議な事に彼らの怖れる祟りとは 殺した敵の怨霊などでは無い
のでございます
亡骸を積み重ね土で封じて京(ケイ)を建てる彼らなのです 其れは
納得なのですが では彼らが怖れて居る祟りとは一体何であろうか
其の時代彼の地では犬の血に牲血の意があるとの事 犬を犠牲にす
る事で邪悪を祓うもの 其して祟りの祟(スイ)とは真は毛深い獣の
事なのであり察するに其の姿形から古代犬種のチャウチャウなので
はと思われるのでございます
祟(スイ)には祟偏に旁を又と書いて(セイ)と読み 毛深い呪獣を殴
(う)って呪詛を祓う一見非合理と想われる物に 理解と情が結び付
き共感として成り立つ共感呪術を意味する字があり 犬を殴ち殺し
て迄其の血を捧げ祓い清めねば成らぬものとは …
其れは顚死者(てんししゃ) 行き倒れた者達の魂なのでございます
当時彼の地の方々には 行き倒れの亡骸は激しい怨念を持つものな
のだとして恐れられ 其の怒りを和らげる為に亡骸を丁重に塡(う)
める事で其の者達の行き場の無い御霊を鎮めたのでございます
出ると示すの祟の字を 神の意が い出る事により示される と解
しては成らぬ事なのでございます
別のお話し其の弐
たたら 「たたら」には鑪 蹈鞴 踏鞴 多々羅 多田羅 多々良 と同じ読
みが 「やたら」と多いのですが … 元い
鑪 蹈鞴 踏鞴 は製鉄の「たたら」
多々羅は広く 多田羅は水に関わりがあるやはり広い土地で何れも
羅(あみ)で以って鳥を捕まえる意 其して多々良は望みなのか良き
事が多い地を言うのでございます
では製鉄の「たたら」には 如何なる意味が隠れて居るのでしょう
あの時代 鉄器は青銅器を凌駕し世界を変えたのでございます 其
れは此の島国でも同じなのですが 独自に進化した此の「たたら」
から産み出される鋼(はがね)は其の多くが人を殺す刃物に姿を変え
るのでございます 此の島国の祟りは彼の地のあの当時の祟りとは
違い 神霊や死霊などの行為の報いとして受ける厄災が祟りと恐れ
て居たのでございます つまり 死霊と祟りとは同じく呪霊足り得
るもの 鋼の造り手は巡り巡って被るやも知れぬ厄災に恐怖し恐れ
慄いて居たのでございます 其して其の恐怖少しでも取り除き心の
安定図る可く作業場の呼び名を祟り祟るの未然形
“たたら” としたのでございます
別のお話し其の参
多々良 多々良は製鉄場では との御指摘がございましたので
確かに多々良には 足がもつれる又はつまづく様がふいごを足で踏
む姿と似ているから 其う呼ばれて居るのだと云われて居りますが
足がもつれる又はつまづく様は不吉な事なのでございます
製鉄の作業場は危険な場 何時事故が起きても可怪しく無い場なの
でございます 危険や事故は不吉な事 不吉で有るが故に其の場を
多々良 良き事多い場 にしたいのでございます
怪我や病も祟りであると信ずる此の時代 祟り祟るを祟らないにし
たいのが心情でございましょう
故に「たたら」とは祟り祟るの未然形の
“たたら” に行き着くのでございます
由比ケ浜:ゆいがはま …
夏はもう直ぐ其処迄来て居りますので 夏の鎌倉とくれば由比ケ浜
今回は由比ケ浜の御説明をば 但し 現在使われて居る由比ケ浜の比の字は何故
か戦後から使われ出した字ですので 元々の井の字の由井ケ浜で筋読みさせて頂
き加えて ケ浜の二文字は省かせて頂きます では
由は 瓠(ひさご·瓢箪)の類いで
瓠中(こちゅう)の実が熟して油化し 中が空虛(から)と成ったものの意
井は 井桁の形なのだが 井戸を意味せぬ場合は死者を収める棺を言うのである
つまり由井ケ浜とは
砂浜に拵えた井型の板屋の中に亡骸を置き
骨に成る迄待つ浜の事 なのでございます
其の後に 御霊(みたま)を他の場所に移し 亡骸も墓所に埋め直すのはま
た別のお話し
其の別のお話しとは
僊人を乗せた鶴の事 向かう先は小高い岡 故に其の岡を鶴岡と言うので
ございます 其の鶴岡は源頼朝が鎌倉に幕府を開いた際小林郷へ地名ごと
移されてしまいましたが元は由井郷に在り 今現在元八幡宮と呼ばれて居
る所が其の場所なのでございます
別のお話し其のニ
大阪府羽曳野市に壺井八幡宮と言う神社がございます
源氏の棟梁 河内源氏の総氏神でございましたが 東国進出の拠点として
鎌倉にも石清水八幡宮を勧進した先が其の鶴岡だったのでございます
源頼朝が鎌倉に幕府を開いて後 河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鎌倉
に移される事と成り其の際 鶴岡も今の場所に移され鶴岡八幡宮と成った
のでございます
問題は壺井八幡宮の壺井 壺井の壺は瓢を原型として居りますので
壺井は由井と同じ意味なのでございます
別のお話し其の参
ゆい には 田植えや稲刈りなど互いの約束に基づいて共に事を行う共同
作業の意がございますが其の字は結 結束の結の字なのでございます
浜での作業は共同作業に間違いは無いのですが 田植えや稲刈りなど常民
とは別の方々が其の作業を為されて居るのでございます
別のお話し其の四
嘗ての頼朝の御所内より御成町へ移された問注所から由井ケ浜へ向かう道
筋に裁許橋が架かって居り 訴訟の結果由井ケ浜で処刑される者達は其の
橋を渡って浜に向かうのでございます 其の者達の供養の為に何時からか
別れ道と成る二又に六地蔵が祀られて居るのでございます
別のお話し其の五
溝出(みぞいだし) 江戸時代の奇譚集「絵本百物語」の中にある死霊講
鎌倉幕府の末期 北条高時の御家人で戸根八郎という武士が居りましたが
其の戸根の家来が死んだので 戸根は亡骸を櫃(ひつ)に入れて由井ケ浜か
ら海に捨てたのだ其うでございます 暫くして櫃は浜に打ち上げられ其れ
を聞き付けた極楽寺の僧らが中を調べた処 人の白骨が出て来たので寺で
手厚く葬ったのだそうでございます 其の後 新田義貞が鎌倉へ攻め入っ
た際 北条勢は其れを迎え撃つ可く由井ケ浜に陣を敷いたものの別の場所
であるとの報せを受け直ちに其ちらに移動を開始するのですが 其の中に
居た戸根八郎だけが何故だか付いて行けず 矢を射られて絶命した其うな
のでございます 其して其の場所は奇しくも 家来を詰めた櫃を捨てた場
所だったのでございます
戸根は刀禰 其の名は船頭に由来し川や海に関わりが深く 家来との間に
何があったのかは判りませぬが どの様な人間であれ亡骸を粗末に扱って
は成らぬ事を十々承知の筈なのですが … とは申せ 此の戦では両軍合
わせて相当数が亡くなって居りますので 此のお話し一つ以ってして奇譚
とか死霊講と言えるのかどうか 判別付かぬお話しなのでございます
別のお話し其の六
リメンバー ネーミングライツ
鎌倉市の愚策に対し 鳩サブレーで知られる豊島屋様の見事な御菓子
元い 見事な御返し 鎌倉を愛する者として密かに感動の拍手を贈って
居りました事 此処に記させて頂きます
鎌倉:かまくら …
鎌倉には凡そ八年程住んで居りましたので 何かと思い出深い街でございます
其んな鎌倉の名の由来をば
鎌は 両禾(りょうか)を束ねて握り其れを刈り取る事を言い
両は 車輌又は数の二つを表わしますが元は車の両輪を言い
禾は 稲穂が垂れた姿 刈り入れ時の事
倉は 穀物を入れる廩倉(りんそう)の事
廩は 集める又は米倉の意
つまり鎌倉とは 刈り取った稲又は脱穀済みの米を倉に納める事を言うのである
… … …
米が穫れる所であれば 極当たり前の事だと思うのだが …
さて
名の由来は色々ございますので 先ずは 神武天皇と藤原鎌足のお話から簡単に
①毒で殺した死屍の山から … 其れは京都の京(けい)の事
②藤原鎌足が鎌を埋めたから … 名の通り鎌は足りて居りますので
③蒲が沢山生えて居たから … 其れは蒲田
④高座郡のたかくらから … 高床の倉の事で 廩倉とは形が違います
⑤比叡山にも鎌倉が … 其処は山の名 意味は同じかも
⑥三方が山で形はかまど 倉
の様に一方が開いて居るので … 倉には扉がございます
⑦アイヌ語で … アイヌ語で 何
カーマ·クラン 平板な石の山と
言う意味から 山を越して行く
と訳し カマクラン と成った … 惜しい (平板な石の山 … ?)
①について 京とは上部に小さな望楼を設けたアーチ状の門の事 此れを軍営や
都城の入口に建てた物を京観と言うが言わば凱旋門の事を言うので
ある 其の造りは積尸封土(せきしふうど · 討ち取った敵兵や処
刑した捕虜の屍を重ねて土で封ずる事)故に 軍社の起源とされ髑骨
台(ろうこつだい)又は髑髏堆(どくろたい)とも呼ばれて居たのである
②について 生まれた時 白い狐が現れ咥えて居た鎌(鎌槍)を足元に置いて去っ
たので名を鎌足と 其の後政(まつりごと)の高みに昇った鎌足は鹿
島神宮へ詣でた其の帰り由井郷に宿泊した際 夢の御告げで何時も
持ち歩いて居た鎌(鎌槍)を其の地に埋めたので鎌倉と呼ばれたのだ
と 其の話しが真であるならば 彼の地の何方かが彼の地の鉄で鍛
えた鎌槍を出産祝いとして贈った品であろう 其の後権力を手にし
た鎌足は御礼参りとして其の地に返したものと思われまする
鎌槍を埋める際 槍の柄 つまり木を外して埋めれば鎌槍は鎌倉と
成るのですが … 其の埋め場所は大倉の松ヶ岡とされて居ります
大倉は大藏の元の名 大藏幕府とも呼ばれた頼朝の御所を含む大倉
谷の谷合四ヶ村の広大な土地なのでございます 其の地に松ヶ岡と
言う地名は無いのですが 其の北西 東慶寺の山号が松岡山と言う
のでございます 此の時代東慶寺はまだ建立されて居りませんが其
れ故に 其の地は素直に松ヶ岡と解して宜しいのだと思われまする
つまり 大倉の松ヶ岡に埋めた のでは無く 六浦から通ずる道を
使い大倉から松ヶ岡に向かい其処に埋めた(現在の松ヶ岡文庫の辺り
でしょうか)と解した方が筋は通るのではと 察するのですが …
何故(なにゆえ)其の場所であるのか判りませぬが 鎌倉五山にも入
って居らぬ東慶寺が寺領では建長寺を抜き円覚寺に次ぐ二番目とは
此れ如何に 本山を持たぬ寺であり男子禁制の寺でもある やはり
何か 在るのやも知れませぬ
最後に 此の当時鎌足は藤原では無く中臣であり 足は何々たりの
たりの意 故に名は鎌の一文字で「れん」と申し
中臣 鎌「なかとみのれん」が真の名 なのでございます
③について 田には稲田とは別に 水に関わりが有る広い土地の意味がある
④について 元は高倉 役割も構造も違います
⑤について 其の山が鎌倉と同じ地質であるならば 同じ名は納得でございます
⑥について どの山からどう見れば かまど に見えるのでしょうか
⑦について アイヌ語でカマとは岩盤を意味し クラはオノマトペアに従えば
クラクラと不安定な事を意味する語なのである 事実 鎌倉の地は
凝灰質である砂岩や腐植土 軟弱な粘性土の地故軟弱な地の上に砂
岩が乗った処を想像して頂ければお解り頂けるものと思われまする
結論 鎌倉とは クラクラと軟弱な土地の上に崩れ易い岩盤が乗った地
なのですが 当時の鎌倉の特産は米と鉄 其の両輪をむんずと掴ん
で刈り取る(採る)様を表して居るのでございます