お知らせ
一本杉 …
七尾から奥能登へ向かう幾筋かの道筋の一筋に “一本杉通り”成る道が在る
其の初見は元和二年(1616年)所之口絵図である 天正九年(1581年)能登国に
入部を果たした前田利家は 早々に畠山氏が築いた七尾城を棄て所口湊に程
近い小丸山に新たな城を築く可く築城を開始すると同時に町割りも新たに行
われて居り故に “一本杉通り”の成立は天正十年(1582年)から初見の元和二
年(1616年)迄の三十五年の間であろうと言うのが大勢の様であるが 私は其
れ以前の能登国守護畠山氏の第七代当主畠山義総の頃に 通りの傍らに立つ
一本の杉は既に存在し且つ通りの名も “一本杉通り”と名付けられて居たで
あろうと想えて成らないのである
天正五年(1577年)の夏 出羽の羽川領の浦に子供や幼児を含む大勢の男女が
乗った数艘の船が漂い着いた 戦に打ち負け宮の浦(能登の一ノ宮 気多大
社)から船に乗り海原に乗り出たものの 此の頃の乱風に船を操れぬまま水
も兵糧も尽き果て既に六日は経って居るとの事 然(しか)も選りに選って漂
い着いた浜は又の名を盗賊大名と揶揄される羽川小太郎義植(よしたね)が領
する浜であった 流石は夜盗強盗を生業とする主が治める浦の者共である
「 此れ 願う処の幸である 一人も残さず討ち取らん 」
浦の者共は羽川の郎党に注進し 強盗の部下共も良き獲物推参なりとばか
りに馳せ集まり如何なものかと船中をぎろりと見やる也 船は余程揺れた
のか船内は吐瀉物と汚物にまみれた様で 洗い落とした痕は見受けられる
ものの其の臭い迄は如何ともし難いものがあったが 兵具の数々を積み込
んで居た為
「 早速此の落ち人らを殺して分取り致そう 」
と主張する者も出て来る始末に 羽川の股肱である茂木因幡と言う者が
「 此の一党を全部助ける可し 」
と強盗の頭領に進言し 漂着者達は皆命を保つ事が出来たのである
彼らを助けた訳は 無論其れを理由に恩を売り強盗の手伝いをさせる為で
あるが 彼らにしてみれば致し方も無く 忸怩たる思いで居たであろうが
其の後 紆余曲折を経て彼らは羽川小太郎義植の死を以て 出羽国の檜山
(ひやま)安東氏第八代当主安東愛季(ちかすえ)を頼り 愛季の直臣五十目
(いそめ)秀兼が領する北秋田郡は五十目(いそめ)村(現五城目町)の滝の下な
る地を与えられ其の地に根を下ろす事に成るのである
此の漂着の者共を率いて来た者此其 秋田畠山氏の祖であり 其の数代後
に秋田は鹿角地方に移り住む一派が居り当時の地名は鹿角郡小坂村一本杉
と申し 大正三年小坂村は町へと代わり昭和には 一本杉も東と西に分け
られ私と兄が生まれた家は西一本杉に建って居たのである
御先祖様が一本杉なる地に家を建てたのは偶然では無い筈 其う想えてな
らなかった私は其の想い確かめる可く アタックザックにスキー板を括り
付け 愛車ブリジストン社製のダイヤモンドに跨がり能登の町々を駆け抜
けたのである あの日から早40年経つもののあの美しい町並みや海も山も
今でも鮮明に私の脳裏に焼き付いたままで居てくれるのですが …
現地の実状が報される度毎に 余りの変わり様に言葉を失って居りました
何が出来る訳でもないのですが 能登の向後を見守りつつ今の私に出来る
事をして行こうと思って居ります
◉ 平凡社 日本残酷物語1貧しき人々のむれ
第一章 追いつめられた人々
略奪に生きる
漂流船きたる
より一部引用
して居ります