お知らせ

2022 / 10 / 02  11:08

闘魂 …

闘魂 …

今から三十年程前 三田のレストランシュヴァリエにて

株主様を御呼びしてのパーティーの一コマでございます

月に一度は御来店下さり 何度か御話しもさせて頂きましたが

当時は血入りのソースがお気に召されたらしく

「流れた分 補充しなきゃね」

と 同席の方々の笑いを誘って居りました

憧れの御方を間近で見られ 幸せでした

心より 御冥福を 御祈り致します

2022 / 10 / 01  10:10

中山王墓 …

中山王墓 …

沖縄の御方から

「中山王墓の中山とは 琉球王国の事ですか」

との問いがございましたので御応え致します

中山王墓とは

中国の戦国時代 (紀元前5世紀~紀元前221年)

中山国     (紀元前507年~紀元前296年迄

        現在の河北省の中南部を中心とする一帯を領土とした国である

        紀元前406年に魏の楽羊に攻められ都を落とされたのだが

        紀元前380年に桓公が復活させたものの

        紀元前296年に趙によって滅ぼされた)

の六代に渡る 王の六基の陵墓の事を言うのでございます

 中でも 第五代の王“セキ”の陵墓が有名であり其の姿形が黒又山(クロマンタや

ま)に似ては居るものの 黒又山の標高と斜面の角度から計算を試みますれば 底

辺の長さは凡そ400㍍にも及び 縄文後期と謂えども其の当時陵墓としての黒又

山の存在は考え難く夏至の朝 二つ在る環状列石の一つ野中堂の列石から日の出

を眺むれば黒又山が鎮座まし其の夕 野中堂の列石からもう一つの環状列石 万

座を眺むれば 日の入りを目にする事が出来るのでございます

山の斜面は東西南北にほぼ正確に面して居り故に 当時黒又山の頂上にて日・月

の運行を観察して居た事は間違いないものと想われますが では何故(なにゆえ)

七段から十段にも及ぶ石のテラスが存在して居るのであろうか …

古事記(712年)の中に 登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)

日本書紀(720年)にては 長髄彦(ながすねひこ)

なる者が一族を率いて神武と戦い(現在の河内平野から生駒山辺り) 

妹の登美夜毘売(とみやびめ)

日本書紀にては三炊屋媛(みかしきやびめ) 

と娶らせた饒速日命(にぎはやひのみこと)に殺されたとの記述が在り

鎌倉時代 ~ 室町期に成立の蘇我物語にては

長髄彦の兄 安日彦(あびひこ:古事記や日本書紀にも名は無い)

が 長髄彦と共に青森県の弘前に逃れたとも 一人津軽へ流されたとも伝わり 

蝦夷の祖を流罪とされた鬼王安日 又は安日王とする伝承が記載されては居るの

ですが “とみ”又は“とへ とべ” と音する人や地は女性の長(おさ:酋長)が治めて

居た地の事を意味して居るのでございます

(此の横浜の 富岡や戸部と呼ばれて居る地が正しく其の地)

と成りますれば 長髄彦の彦の文字は成人した男性を意味する文字なれど

登美能那賀須泥毘古の登美は女性を意味する文字であり 

(毘は助ける 古は守るの意故に 姉の安日を補佐する意か)

安日なる呼び名もやはり女性を示す文字であり 那賀須泥又は長髄は長い州の根

詰まり此の物語は女系の部族が治めて居た 淀川が流れ込む辺りの地を男系の

神武の部族が女性の長(おさ)を騙して奪い取った物語であり 其の事実を隠蔽す

可く長髄に彦の文字を加え 安日を兄と偽ったのでござりましょうが 那賀須泥

又は長髄が殺され 安日が東北へ逃れたのは事実やと想うのでございます

 安日とは 白日(光輝く太陽の下) 祖霊を祀る寝廟の中で安寧の儀礼を行う女性

の事を言うのであり 日を曰(えつ)の文字と誤読したとしても 曰(えつ)とは祝詞

など神霊に告げる書を収める器の事であり 神託 神意を告げる意故にどちらの

文字でも宜しかろうと思うのでございます

では安日が逃れた場所は何処なのか 皆様既に御察しやと想われますが 鬼王と

も呼ばれた安日でございます 鬼王の鬼は鬼道の鬼 安日は卑弥呼と同様鬼道を

以て上津野(かみつの 現在の鹿角)の民を纏め上げ新たな長(おさ)に収まったもの

と想われるものの では何故(なにゆえ) 黒又山と中山王墓 其の規模は違えど同

じ階段状のテラスを持ち頂上には霊廟が聳え立って居たのか

時は縄文後期 寒冷化の為 東北の一部の人々は西へ流れて行き  米と共に到来

する弥生時代を迎える頃には大陸との往来の頻度も増し 中山国が滅ぼされた紀

元前296年は弥生中期の頃なれば  其の一部の部族が渡来して居たとしても何の

不思議も無く 長髄の髄とは骨の中の脂 いわゆる骨髄の事 中山国の祖は遊牧

民族の北狄(ほくてき)と呼ばれた肉食の部族であり 其の味を知り尽くした彼ら

は此れを美味と褒め称えるものの 我が国には此れに当たる語が無く髄を脛(す

ね)の意に用いて居る事から肉食はして居たものの 骨の髄迄は口にしていなかっ

たものと想われるのでございます

中山国の末裔が渡来して居れば縄文人と交わり居る事は必須であり 安日の部族

と交わり居る事も有り得たものと想われ 安日と共に上津野(鹿角)へ落ち延びた

集団は安日の鬼道と石切り 石積みの新しい技術を以て上津野の民を纏め上げ

中山王墓に似せた黒又山を築き上げたものと想うのでございます

因みに我が国に於いて神社の表は必ず東 又は南を向いて居るのですが現在の黒

又山の頂上に建つ社は西を向いて居るのは何故(なにゆえ)か

其の社 安日の末裔 安部貞任の(あべのさだとう)所縁の者が 薬師堂を建立し

たのが創祀とされて居りますが 富士山の信仰と同様 深夜に頂上に登り付き東

に背を向け 日の出とともに火口に映し出される己の影(ブロッケン現象に似せた

行いか)に対し ひたすら祈りを捧げるが如く黒又山は自然な山を神とする信仰と

新しい技術が結び付いた結果 新たな信仰の対象と成った御山なのであり 安日

亡き後 安日の亡骸を埋めたのであれば 其処で初めて王墓と成るのでございま

す 頂上から地下10㍍程の処に 空間が在る事が確認されて居る処から其の確率

は高いものと思われるものの 更なる調査を願って止まぬ今日この頃なのでござ

います

 

 

 

             

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