お知らせ
倭文(しずり) … 続く
倭文
(しつ・しつり・しづ・しず・しずり・しずおり・しずぬの・しとり・しどり・
しどおり)と 何とも多くの読みを持つ二文字なのでございます
(便宜上“しずり”で統一させて頂きます)
倭文(しずり)とは日本の古代の織物の事で 本年の5月25日に公開されるドキュメ
ンタリー映画 衣服の起源を探る「 倭文(しずり)旅するカジの木 」の主題な
のでございます
日本の神話に秘められた幻の織物 “倭文(しずり)” 其の白さは光の象徴であり
邪悪なものを祓い身体を護る神聖な力を持って居たとされ 古代の日本人が衣服
に込めた力と起源を探る 映像民俗学を標榜する北村皆雄監督が5年の歳月を掛
けて完成させた知的好奇心に溢れたドキュメンタリーだ其うで 謎を解く鍵は衣
服の始源を担った「カジの木」が握る
中国南部を原産とする其の木のルーツを巡り台湾 インドネシアのスラウエシ島
南太平洋のパプアニューギニア 更に日本各地に倭文の痕跡を求めると古代国家
の重要な謎が明らかに成って行く 其して現代の織物作家達は倭文の創造的復元
に挑むのだと 今から楽しみな映画なのですが 私の記憶に間違い無ければ「カ
ジ(梶)の木」の原産地は未だ不明の筈
加えて其の織物の地色は白やも知れませぬが 赤や青などに染めた緯(よこいと)
で文様を乱れ模様に織り出した織物であると認識して居たのですが …
そもそも倭文の倭とは 倭の旁(つくり)の委は稲魂(いなだま)を被って舞う女の姿
を表し(男が舞う場合は年の字となる)委に人偏が付いた倭は 其の習俗を持つ老
若男女全てを意味するものであり文とは 同族として加入する通過儀礼の際 聖
化の為に朱などで加える文身(✕の形をした刺青)の事を言うのである
文字が成立した頃 殷(商王朝)にも其の習俗が在り位の高い者から庶民に至る迄
広く浸透して居た様である 因みに
出生式の“さん” 産の旧字で三画と四画がメの字
成年式の“げん” 彦の旧字で三画と四画がメの字
成人式の“がん” 顔 同上
凶礼(死葬)の“きょう” 胸
など他にも凶 兇 匈 恟の文字が今に伝わる
文身の俗は 多く越人(現代中国の浙江省の東海岸が彼らの起源とされ 越族又は
百越と申し古代中国の南方 主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北
部に至る広大な地域に住んで居た民族の事)の異俗とされる夷系(東の異民族)の諸
族の間で広く広まり日本の古俗にも其の風習は認められて居るのであり 東南ア
ジアの諸部族の間には後迄も永らく其の俗は伝えられて来て居たのである
『 謎を解く鍵は衣服の始源を担った「カジ(梶)の木」が握る 』とあるが
此の列島(日本)に措いての養蚕と絹の製法は紀元前10世紀には既に行われて居り
其の品質は紀元前3000年前から続く中国産には遥かに及ばぬものの 律令の時代
には納税の為の生産が盛んに成って行くのである なれど品質では中国産に遥か
に及ばず中国産の輸入にも圧され生産は徐々に衰退の一途を辿るのであるが 紀
元前10世紀と申さば弥生時代の始まりか又は縄文時代の後期に当たる時期である
絹でさへ紀元前10世紀には此の列島で織られて居り 養蚕も生産も既に始まって
居るのである 品質では中国産に及ばぬ迄も倭文と比べますれば 其の美しさや
光沢は遠く及ばぬものであろうと察せられるのでございます
では 倭文の始源は一体何処迄遡れば良いのであろうか
越人と倭人との文化的共通性は稲作や断髪 黥面(刺青)など多々あるのである
中でも 裸潜水漁労方法は越人と倭人特に海神族(安曇族)との類似性が中国の歴
史書に見受けられ加えて 現代の中国では廃れてしまった熟鮓(なれずし)は越人
の食文化の中にも存在して居り熟鮓は米を使用するものであり 故に“古い時代”
に長江下流域から此の列島にセットで伝播したのだと考えられるのである
では 其の“古い時代”とは何時なのか
実は 倭人の文字の初出は魏志倭人伝では無いのでございます
『 漢書 』地理志(編纂者・班固 班昭)に依れば
「 会稽の海の外に東テイ人有り 分かちて二十余国を為し歳時を持って来たり
て献見すと伝ふ 」
と有り “テイ”とは魚偏に是と書き鯰説と鮭説があり故谷川健一氏は
「 我が列島の中に東テイ人の国を求めるとすれば阿蘇山の周辺を措いて他には
無い 」と記して居る事から“テイ”を鯰と考えて居るのであろうが 私は鮭説を
取らせて頂きます 何故(なにゆえ)か
以前トマトケチャップの語源はアイヌ語の鮭汁 詰まり鮭の魚醤であろうと述べ
た事がございます アイヌ語で鮭は「神の魚=鮭・カムイチェプ」と呼ばれて居
り 其の行き着いた先が現代の福建省の東部と対岸の台湾の西部の辺り クレオ
ール言語の定理通りカムイチェプがケチャップへと変化して行ったのであろう
此の地は古代はビン(門に虫の字)人の領域であり 春秋戦国時代に楚に滅ぼされ
た越人がビンに流れ込んで来た為ビン越と呼ばれる様になり 秦末の動乱期にビ
ン越国として独立を果たしたものの漢の武帝に滅ぼされ 其の一部は東南アジア
に散らばりを観る事が出来るのである
此の地の者らが東南アジアに散らばりを観るのは此の時ばかりでは無い
続く
牡丹園 …
三年振りの鎌倉でございます
牡丹園開園の御知らせを耳にし 古い御守りの
御焚き上げを兼ねて鎌倉の八幡様を詣でたので
ございます 牡丹は皆美しく園自体も懐かしい
ものでしたが牡丹園の反対側西御門近く 嘗て
通って居た鶴岡八幡宮研修道場も其のままに懐
かしく ケーキ屋さん時代は夕方には仕事を終
える事が出来ましたので 週一の大船中学校で
の指導と合わせ 週に三日は稽古が出来て居た
のですが
⦅古武術(棒手裏)は別の道場で隔週でございました⦆
レストランに移ってからは其れも叶わず 独立
したならば尚更叶わず 哀しいかな今に至って
居るのでございます
土・日の一皿 … 其の六
ハンガリー産のフォワグラと蒸し芋のソテー
ソース蒲焼きバルサミコ酢 でございます
フォワグラもマグレ鴨同様 ほぼ安定して
入荷して居る様ですので 此方はメニュー
に加えて行こうかと 思って居ります