お知らせ
お暑うございます … 其の五
鮨売り
手拭いを吉原かぶりにして、粋な物綺麗な拵えの売り子が
「 すしや~こはだのす―し 」
と言ってやって来る。
船の形をした菓子折りのしっかりした様な物を積み重ねて、此れを肩に乗せて
草履掛けか何んかで いゝ声で売りに来るのである
此の仕出し寿司、大きな問屋が沢山拵えて売り子へ渡すのであるが、船一つに
廿四(にじゅうよん)詰って居て、値はたったの百文(一銭)、一つ四文という安いも
のである。
船の上には桃色の布巾がぱらりとかゝって居た。当時まぐろも、もとよりあった
が、寿司の代表はこはだ、此れが一番となって居たので
「 寿司や~こはだの寿―司 」
とふれた。
こはだと言う魚は、あのまゝ食べてはつまらないものだが、寿司にすると馬鹿に
旨く成る
( 彫刻家 高村光雲翁の話「四谷馬方蕎麦」
子母沢寛「味覚極楽」所収 )
お暑うございます … 其の四
七夕の竹売り
七月の六日より、七夕祭りとて、竹枝に五色の紙を色紙短冊に切て結び付け、屋
上より空高く立つ。牽牛織女に奉る心なり。此の竹を商う者、竹の程好き物を荷
ひ、市中を売あるく、「竹や々」の声の響かざる所無し。毎戸裏屋に至る迄、必
ず求めけるなり。
( 江戸府内絵本風俗往来 )
星祭は七日の夜なる事也。然るに何事も早きを勝とする風俗にて、天明の頃は七
日の未明より短尺を竹に付て出せしが、其れには手廻しあしきとて、六日の夕に
出すもあり。またおそしとて、寛政の頃より六日の朝出す事となる。竹売ものも
七日の朝より六日の夕になり、後には六日の未明になりたり。近来に至りては五
日の夕に売て来れり、六日に竹を売る者は稀なり。扠(さて)六日の未明より、町
々家々長き竹の先に短尺其外様々の品を彩紙にて作り出す事なり。かく早きを争
いて二日一夜炎暑風露にうたれ、竹は枯れて色も無く、短冊は過半ちりぬれば、
星夕手向の趣意も何時しか失なへり。つくりものも天保年中停止せらる。
⦅ 風俗本『守貞漫稿』⦆
天明の頃 1781―1789
寛政の頃 1789―1801
天保の頃 1831―1845 七夕の竹 二本で百文
蕎麦一杯 十六文
『 藤岡屋日記 』
樹木信仰なる「もの」は世界各地に存在するが 知名度の高さではやはりクリス
マスツリーが其の最たる「もの」であろう だが其のクリスマスツリーはキリス
トやキリスト教とは全く関係の無い「もの」なのである
其の元は北欧に根を張ったゲルマン民族やヴアイキングの間で 冬至の頃に行わ
れた「ユール」と呼ばれる祭りの事であり 用いる樹木は樫の木なのである
其の「ユール」がキリスト教と結び付いたのは 15世紀前半の1419年の頃であり
年の瀬に始められる処から 日本の「門松」とも合い通じる「もの」があり其う
だが オーナメントのボールとリンゴはアダムとイブの知恵の実を表して幸福を
願い ベルは魔除けを意味しボールにイラストやメッセージを入れる処など 日
本の七夕が短冊に願いを込める様に やはり通じる「もの」は七夕の方が強いの
やも知れませぬ
クリスマスツリーはユールにキリスト教が結び付いた「もの」であるが 日本の
七夕も複数の物語りや伝説が結び付き 成り立って居るものの何故(なにゆえ)竹
なのであろうか 北欧の「もの」は常緑樹で冬の間も緑を保つ為 強い生命力の
象徴とされた「もの」であるが 竹は其の成長の早さと竹林が一つの根で繋がっ
て居る処から察すれば其れは 一族の繁栄と結束を願う「もの」なのであろう
七夕の短冊が五色であるのは 陰陽五行説からの自然界を表す事と 儒教からの
人としての生き方を表す事にも由来して居るのであろうが 我が故郷秋田は鹿角
の地に錦木なる五彩の美しい木片の束を売り歩く若い男と 白鳥や鶴 鴇(とき)
などの白い羽根を織り込んで居る処から羽衣とも称され 京の都人からは『 希
布の細布または狭布の細布(けうのせばぬの) 』と呼ばれた通常の布より織り幅
の狭い布を織る若い娘(織姫)との悲恋物語りがある
詳細は省くが 叶わぬ恋の果てを不憫に思った娘の父親は 二人の為に塚を祀っ
たのである 其の塚は錦木塚と呼ばれ 歌にも良く歌われ能因法師などは
『 錦木は 立てなから此其朽ちにけれ けふの細布 胸あはしや 』と歌い
世阿弥の謡曲『 錦木 』により 更に広く知れ渡る事に成るのである
因みに五彩の美しい木片とは 楓 酸の木 樺桜 槇の木 苦木の五種であるが
色迄は未だに特定出来ずに居るものの どの木が何色を示すものなのか判明しま
すれば 七夕との新たな関わりが浮いてでて来るやも知れませぬ
お暑うございます … 其の參
冷水売り … 其の呂
文化十四年(1817年)五月の事として
次の記事がございます
「扠(さて)、十五日の昼より炎暑となりて、其あつき事堪へがたし。
雨一滴も無く日に々てり増る程に、廿三(にじゅうさん)、四日の比は所々水切
にて、下町辺りは一荷百文より百二十文に至る。」
( 我衣 )
五月で此の暑さ
其の年の夏の暑さは
如何程であったであろうか
お暑うございます … 其の弐
冷水売り … 其の以
ただいま暑に向かえば、呑水を売る者多し。
水桶清らかに、錫、真鍮の水呑碗きらきらしく、辻々に立ちて売る。
中に糒(ほしいひ)、葛粉に白砂糖を和して呑ましむ。
( 羽沢随筆 )
ぬるま湯を辻々で売る暑い事
( 柳多留 )
一碗四文の冷水売りの商いは 五月頃から始まり
売り声は「ひゃっこい~ひゃっこい」なのですが
宣う程 冷たくは無かった様です。
お暑うございます … 其の壱
西瓜売り
寛永年間中 1648―1652 琉球より薩摩へ
慶安の頃 1648―1652 長崎にあり
寛文・延宝の間 1661―1681 長崎より大阪へ 京・江戸に広まり今盛んなり
( 本朝世事談綺 )
盤台桶又は籠に水瓜、真桑瓜、桃を積並、水瓜は切て赤き甘味を示し、真桑瓜は
皮をむき四ツに庖丁目を入れ、桃には水を打、夏桃の赤くうつくしきを粧ふて売
る。此頃売りし如き桃の実の大きく味ひ美なるもの、今は絶てなし
( 江戸府内絵本風俗往来 )
中公文庫
『彩色江戸物売図絵』
三谷一馬著