お知らせ
武蔵国久良岐郡蒔田村(郷) … 其の五
野菜や穀物には向かない地質なれど 蒔田と田の字が付いて居る以上 梅以外に
も米には向いて居た土壌の様である 然り乍ら
韓国や中国に措いて食物を栽培する意の文字は田の一文字であるが 我が国に措
いては田以外に畑・畠の二つの文字が存在する 何故(なにゆえ)か
韓国や中国に措いては田は水を引き入れない“はたけ”を言うが 我が国に措いて
の田は水を引き入れた水稲栽培を言うのであり 水を引き入れない他の食物と分
ける必要性が生じた為 我が国独自の国字と言われる畑と畠の二文字を産み出さ
ざるを得なかったのである 畑は読んで字の如く焼き畑を意味し 畠は土の表面
が乾いて白く成った 又は焼き畑の灰で白く成ったの意である
当時此の列島で見られる極々当たり前の景色なのだが 江戸名所図会に描かれた
井土ケ谷の地名の由来と成った井戸を持つ乗蓮寺と共に 住吉神社の面前に広が
る田が其れを示す通り 蒔田と言う有りそうで他には無い地名に何処か納得なの
でございます
武蔵国久良岐郡蒔田村(郷) … 其の四
吉良頼康から吉良氏朝の頃
蒔田を含む久良岐郡の直接の支配者は 代官を務めた間宮の一族であった
笹下城を拠点に氷取沢(ひとりざわ)と杉田に根を張って行くのだが 所属
は玉縄衆に属し蒔田湾を母港とした小田原北条水軍の一翼を担い 氷取沢
に腰を落ち着けし間宮の者共は 大岡川の水源と武具専門の鍛冶屋が多く
居住して居る事もあり(故に火取沢とも呼ばれて居た) 其の警護も兼ねて
の根張りなのであろう
一方杉田は大岡の南側 外海に面した海岸線は屏風の如く切り立った崖で
占められ唯一 杉田の浜のみが砂浜を有し船を繋ぎ留められる浜であった
其の頃は浜から凡そ500m先迄遠浅であり海鼠が良く捕れ 世が乱れて居
様が居まいが わざわざ上方から買い付けに出向いて来る程杉田の特産と
して価値ある商品であった故に 其此に移り住みしはやはり警護を兼ねた
根張りなのであろう
又 此の地は地質の関係からか野菜や穀物の栽培には不向きであった様で
ならばと 戦陣に何かと重宝な梅の植樹を奨励したのが始まりで現代に措
いても 杉田の梅林として名を残す事と成ったのである
武蔵国久良岐郡蒔田村(郷) … 其の參
磯子の館を根城に 保土ヶ谷の語源と成った榛ヶ谷(はんがや)一族を駆逐した
平子(たいらこ)氏であったが 吉良成高が蒔田に給地を得た事により其の精鋭
にして強兵な軍団の風下に立つ事は吝かではないものの 成高亡き後 跡目を
継いだ頼康の頃には 小田原北条氏の台頭と圧力の前に 其の精鋭にして強兵
な蒔田吉良勢が何時の間にやら名ばかりの 御飾りな 戦わぬ軍団へと堕ちて
行き 其の名を辱しめて行くを良しとせぬ平子の者共は 越後の上杉氏を頼り
先祖伝来の蒔田の地を後にしたのであった
武蔵国久良岐郡蒔田村(郷) … 其の弐
室町時代吉良成高(しげたか)の頃 世田谷の他に新たに蒔田に給地を得た成高は
入り海(蒔田湾)に面した大岡岬の突端(大岡川右岸の標高35mの台地)に新城を築く
と 其の東に鎮座ます宝生寺の門前から 入り海の岸迄続く浜辺に塩田を造営し
塩の生産をも既に初めて居たのであった
塩田は岸に沿って時計回りにぐるりと造られ 太田道灌の館(現在の太田小学校)
前で終わりを見るのである
此の二人余程馬が合うのか
武蔵の国人豊島氏を討伐す可く 太田道灌が出陣致せば成高は道灌に代わり江戸
城代を務め 数度の合戦を下知し勝利を挙げて居るのである
無論 互いに信を措いて居るのであろうが
道灌にしてみれば
『後ろを任せられるのは此の漢(おとこ)を措いて他には居らぬ』
のであろうし
成高にしてみれば
『此の乱世を生き抜くには 此の漢に懸ける他手は無し』
なのであろう
にしても 見事な連携と戦いっぷりなのである
武蔵国久良岐郡蒔田村(郷) …
天正十八年(1590年)の七月五日
小田原北条氏が滅んだ其の時 蒔田の御所とも呼ばれた蒔田城の城主吉良氏朝は
籠城して居た小田原城を脱城し上総国へ逃れて後 徳川家康に仕える事に成るの
だが 三代前の吉良成高の頃より武具の製造に関わる職人(しきにん)や漁民農民
商人など 数多な生業(なりわい)の領民で溢れて居た此の蒔田村も田地を得る可
く蒔田湾を埋め立てるに及び 六浦同様軍事的にも経済的にも其の必要性を失い
村の過疎化に拍車を掛けて行くのである