お知らせ
ふうじん(火篇に孚と人) …
紀元前1600年夏王朝最後の王 桀(けつ)の暴政圧政は止まる処を知らず
治世は目も当てられぬ程乱れに乱れ 此れに対し最早我慢が成らぬと神
より天命を授けられたとして商族の君主天乙(てんいつ)は 悪政を正すを
大義名分とし 賢人伊尹(いいん)の助けを借り満を持して蜂起し鳴条での
戦いで夏軍を破り凡そ300年続いた夏王朝を滅亡させ 諸侯の推挙により
王と成り殷に都城を定めたのである
賢人伊尹とは何者か
伊尹には 伊尹の母が大洪水に巻き込まれ桑の大木と化し 其の幹から
伊尹が生まれたとする伝説がある
伊尹の生地は定かではないが 成人後は料理人として有辛(ゆうしん)氏
(有辛氏の辛は 真は草冠に辛なのですが 都合上辛とさせて頂きます)
に仕え 有辛氏の娘が商族の君主子履(しり・後の天乙)の元へ嫁ぐ際に
其の付き人として商族の首都 殷の宮殿に入宮する事に成ったのである
其此で子履に認められ商邑の政に携わる様に成り 次第に頭角を表して
重きを為し 商王朝の成立に多大な役割を果たし 阿衡(あこう・摂政・
関白)として王朝の基礎を固め湯王(とうおう・天乙)の死後は子の外丙
(がいへい)と中壬(ちゅうじん)の二人の王の補佐をしたと伝うのである
此の時代 料理人は“ふうじん”(火篇に孚と人)と呼ばれて居た様である
孚とは
子(男子・王子)を捕まえた 又は人質と言う意である 其の孚子が其の
国で生き抜く為には 其の国の王の信頼を得ねば成らず最も信を得た者
は 王が口にする料理作りを任される迄に成るのである
伊尹の伊とは 其の一文字で伊水(伊河)の事を指すのだが 尹とは手に
神杖を持った象(かたち)で聖職者の意なのである
詰まり尹尹とは 伊水の神を祭る聖職者の子であり洪水により家族と
離れ離れに成ってしまったのか 又は伊水の神を祭る聖職者の子と知
られ拐われてしまったのか はたまた戦に巻き込まれて親を失ってし
まったのか何れにせよ幼い頃に何かの理由で有辛氏の預りの身と成っ
た伊尹は 生き抜く可くひたすら料理の腕を磨いて居たのであろう
因みに ふうじん(火篇に孚と人・真はほじんと音する様である)の文字
は我が国に伝わる前に彼の地にて既に消えて居り 烹人(ほうじん)厨人
(ちゅうじん)と文字も呼び名も代わって行くのであるが …
文字を 言葉を消した者は何者か
我が国に措ける徳川家康の如く王子故に人質であり 其の時代を羞恥
と感じてし申たのか 権力の座に就いた其の男は事実を消す可く其の
文字も言葉も消してしまったのである
王子であり人質であり後に“ふうじん”の文字も言葉も消せる事の出来
る程力を有した者と言えば … 私の記憶に間違い無ければ
其の男の姓は贏(えい)諱(いみな)は政 贏政其の人と想われるのですが
如何でござりましょうや
◎追文 : 伊尹の伝説は北魏のれき道元の水経注の中にも見える
(れきは麗におおざとへん:現在の河南南陽の県名)
昔 辛氏(有辛氏か)の娘が伊川(いせん)のほとりで桑を
摘んで居た処 空桑(葉の少なくなった桑)の内に嬰児が
居るのを見つけ 養育して聖者を得たと云(つた)うもの
である
空桑とは 地名でもあり(現在の河南省陳留県の南)
故に其の地が 伊尹の生地やも知れませぬ
杞の地 …
夏王朝の遺族や遺臣 領民も居たであろうが
其の地は端から杞と言う名の地では無かった
のではなかろうか 夏人が移り住む事と成り
故に杞の名が付けられた 何故(なにゆえ)か
杞
とは センダン科の落葉高木であるものの
ヤナギ科の落葉低木でもあり 中でも特に
川柳(かわやなぎ) : 川辺に自生する柳の一種
行李柳(こうりやなぎ): 水辺に植栽される事の多い柳の一種
の事を言うのである
何れも現在では栗石粗朶工(くりいしそだこう)と呼ばれる
河川の流れが比較的緩やかで且つ波の影響の少ない箇所の
法面(のりめん)に措いて 土砂の流出による崩壊を防止し
法面の保護を目的とした工法に仕様される材なのである
又 行李柳に措いては長さ2mから10m程の柳蛇籠と呼ば
れる籠を編んだ中へ石や砂利を詰め込み埋め置く工法の
事を言い此れらの工法は正に禹(う)の父鯀(こん)が挑んだ
湮(いん)と呼ばれた工法の事を言うのである
鯀は 9年の歳月を掛けても上手く行かなかったのだが
禹は 鯀の9年を4年も上回る13年もの歳月を掛けて成し
得たものの其の陰には父鯀が挑んだ“湮”の工法が下地に
在ったから此其であろう
何れにせよ 杞の地も黄河が流れる地であり為に護岸の
修理修築は継続して居たであろうし其れを得手とす夏人
にとり 誰が名付けたのかは判らぬ迄も“杞”と言う名は
彼らが住み処とする地の名に 相応しい名なのだと想う
次第なのでございます
本日も 雨が降り続いて居ります
我が故郷の秋田にても 土砂崩れや川の氾濫が多発して
居るとの事 現代の鯀や禹の登場を待ちわびて居るのは
私だけではないと 想う今日此の頃なのでございます
夏祭り …
我が国に措いては
御先祖様の御霊の供養が主であるが五穀豊穣を願う祭りも少なくはない
其の始まりはやはり夏王朝の始まり と宣っても過言ではないであろう
夏王朝の始祖と成る禹(う)は 紀元前1920年に起こった大洪水の治水に
失敗した父鯀(こん)の後を継ぎ 黄河の治水に当たり首尾良く成功を納
め 其の功績を諸侯に認められ帝位に就き陽城(現:登封市)に都を定めた
◉ 父の鯀は堤防を築き上げた上で
「湮」イン:(しずむ ふさぐ)
と呼ばれる高地の土砂にて低地を埋める技法を用いたのだが
9年経っても成果を上げる事が出来ずに居たのである
其れに対し子の禹は 放水路を分けて排水を行う
「導」ドゥ:(みちびく)
「疏」ショ:(とおす)
と呼ばれる技法を用いて黄河の治水に成功したのである
夏の字の元と成った大きな目を持つ男の頭上に祝詞を納めた箱を乗せて
跪く象は其の時の姿其のままなのであろうが 治水の成否は人々の命に
直結するものであり此の儀式 儀礼は治水の成功を願い其れに拠る豊穣
を望み更に水に呑まれて逝った者達の御霊を弔う意も含めての行いなの
である
楚文字の仮面を着けた象は祝詞を納めた箱の派生であり 鎧を身に付け
た象は時は春秋・戦国時代なのである 勝利を願う戦勝祈願の象なので
あろう
我が国に措いても祭りの屋台にてお面を販売して居るのは其の名残なの
である
夏人 … 其の後
杞の地に移された夏の王族の末裔は
杞国を建て其の地に根を張るのだが
小国にして武力も脆弱 故に王都を
何度も遷都せねばならぬ羽目と成る
列子の天瑞の項に
杞人天憂 又は杞人之憂と呼ばれる
物語りが在る 現在の我が国に措い
ては“杞憂”と略される物語りである
春秋時代杞の国に
「何時か天地が崩れ落ちるのではないか」と
憂いて夜も眠れず食事も喉を通らぬ男が居た
彼の事を心配した友人が
「天は空気だから落ちて来ない」と諌めたが
「太陽や月は何故落ちて来ぬ 大地は如何か」
続け様の問いに
「太陽や月は 空気が輝いて居るだけなのだ
大地は層が分厚いから 崩れはしない」と
熱心に諭した甲斐があり 杞の国の男は漸く
納得に至り 二人して喜びあったのだと伝う
亡国の憂き目に遭うた御先祖様の血肉の記憶
が其うさせたのであろうが其れは現実と成る
紀元前445年杞国は楚国に攻められ滅亡する
杞憂とは
心配する必要の無い事をあれこれ心配する事
と解されて居るものの 天地は崩れず太陽や
月も落ちては来なかったが 国は滅びたので
ある 因みに
楚文字は 別の呼び名で簡帛(かんはく)文字
又は簡牘(かんとく)文字と呼ぶのだが 杞国
の最後の君主の謚号が“簡”とは何とも 意味
有り気な呼び名である